水鬼

水鬼

 

岡本綺堂

 

子どもの時からあまり上手でもなかったが、年を取ってからいよいよ下手になったとみえて、小一時間も糸をおろしていたが一向に釣れない。すこし飽きて来て、もう浮木の方へは眼もくれず、足もとに乱れて咲いている草の花などをながめているうちに、ふと或る小さい花が水の上に漂っているのを見つけた。僕の土地ではそれを幽霊藻とか幽霊草とかいうのだ。普通の幽霊草というのは曼珠沙華のことで、墓場などの暗い湿っぽいところに多く咲いているので、幽霊草とか幽霊花とかいう名を付けられたのだが、ここらでいう幽霊藻はまったくそれとは別種のもので、水のまにまに漂っている一種の藻のような浮き草だ。なんでも夏の初めから秋の中ごろへかけて、水の上にこの花の姿をみることが多いようだ。雪のふるなかでも咲いているというが、それはどうも嘘らしい。

 なぜそれに幽霊という名を冠らせたかというと、所詮はその花と葉との形から来たらしい。花は薄白と薄むらさきの二種あって、どれもなんだか曇ったような色をしている。ことにその葉の形がよくない。細い青白い長い葉で、なんだか水のなかから手をあげて招いているようにも見える。そういうわけで、花といい、葉といい、どうも感じのよくない植物であるから、いつの代からか幽霊藻とか幽霊草とかいう忌な名を付けられたのだろうと想像されるが、それについては又こういう伝説がある。

 昔、平家の美しい官女が壇ノ浦から落ちのびて、この村まで遠く迷ってくると、ひどく疲れて喉が渇いたので、堤から這い降りて川の水をすくって飲もうとする時、あやまって足をすべらせて、そのまま水の底に吸い込まれてしまった。どうしてそれが平家の官女だということが判ったか知らないが、ともかくそういうことになっている。そうして、それから後にこの川へ浮き出したのがあの幽霊藻で、薄白い花はかの女の小袖の色、うす紫はかの女の袴の色だというのだ。官女の袴ならば緋でありそうなものだが、これは薄紫であったということだ。哀れな女のたましいを草花に宿らせたような伝説は諸国にたくさんある。これもその一例であるらしい。

崔書生

崔書生

田中貢太郎

 

崔は長安の永楽里という処に住んでいた。博陵の生れで渭南に別荘を持っていた。貞元年中のこと、清明の時分、渭南の別荘へ帰って往ったが、ある日、昭応という処まで往くと陽が暮れてしまった。

 崔と女と貴婦人の三人が酒を飲んでいた。と、何処かで幽な物の音がしはじめた。女も貴婦人も顔の色を変えた。同時に家の中が騒がしくなった。

 「賊が来た、賊が来た」 女が立ってきて崔の手を掴んだ。

 「どうか、あっちへ往って、隠れてください」 崔は女に伴れられて室を出て往った。

 女がいそがしそうに小さな門を開けた。崔は門を出て後を見た。女の姿も見えなければ出たと思った門もなかった。崔は驚いて眼を瞠った。自個は微暗い穴の中に寝ていたがそこには草が生えていた。

 崔は驚いて起きて穴の中を出た。外は林で椿のような花が淋しく咲いていた。崔は足の向くままに歩いて往った。一人の男が鍬を持って土の盛りあがった処を掘っていた。それは自個の僕であった。僕は喜んで鍬の手を止めた。

 「おお、旦那様か、貴君は一体どうなさいました」 崔は自個のことが自個で判らなかった。

 「旦那様が、ここへ来て急に見えなくなりましたから、不思議に思って、ここを掘ってるところでございます」 そこは大きな塚穴の口であった。

 崔と僕はその塚穴を掘ってみた。中に石があってそれに刻んだ文字があった。

「後周趙王の女玉姨の墓、平生王氏の外甥を憐重す、外甥先だって歿す、後、外甥と同じに葬らしむ」 

 中には二つの棺があった。一つの棺を開けると、白骨の中に交って崔の持っていた紅箱が五つ六つ入っていた。崔は驚いて自個の帯を見た。帯には玉の指環が二つあった。

睡蓮

睡蓮

 

横光利一

もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰好(かっこう)なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下北沢(しもきたざわ)という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北沢といえば前にたしか一度友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたいと洩(も)らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。

 秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇(うすやみ)の中に際(きわ)立って白く見えていた。

「ここですよ。どうですかね」

 大工は別に良いところでもないがといった顔つきで、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植(うわ)っている平凡な畑だったが、周囲に欅(けやき)や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。腹立たしいときに周囲に気がねして声も出さずにすましていては家に自由のなくなる危険がある。それに一帯の土地の平凡なのが見たときすでに倦(あ)きている落ちつきを心に持たせ、住むにはそれが一番だとひとり定めた。

「どうしますか。お気に入ったら帰りに地主の家へいって交渉してみますが」

「じゃ、ここにしよう」

 こういう話でその土地は地主ともすぐ定められた。そして、その年の暮に家も先(ま)ず建って私たちの一家は移って来た。周囲の景色が平凡なため、あたりの特殊性を観察する私の眼も自然に細かく働くようになった。森に包まれている道も人はあまり通らず、ときどき魚屋が通るほどの寂しさだったが、春さきの芽の噴き始めたころから若い夫婦が二人づれで通るのをよく見かけるようになった。この二人は散歩らしく良人(おっと)の方は両腕を後の帯にさし挟み、樹木を仰ぎ仰ぎゆっくりと楽しそうに歩き、妻君の方はその傍(そば)により添うようにして笑顔をいつも湛(たた)えていた。私は見ていてこの夫婦には一種特別な光がさしていると思った。二人とも富裕な生活の人とは見えなかったが、劣らず堂々とした立派な風貌(ふうぼう)で脊(せい)も高く、互に強く信じ合い愛し合っている満足した様子が一瞥(べつ)して感じられた。

最近の感想

最近の感想

 

種田山頭火

 

 

 

 

 現時の俳壇に対して望ましい事は多々あるが、最も望ましい事の一つは理解ある俳論の出現である。かつて島村抱月氏は情理をつくした批評ということを説かれた。それとおなじ意味に於て、私は『情理をつくした俳論』を要望する。

 合しても離れても、また讃するにしても貶するにしても、すべてが理解の上に立っていなければならない。個々の心は或は傾向を異にし道程を異にするであろう。しかしながら、それらはすべて真実から出発していなければならない。

 評者の心は作者の心にまで分け入らなければならない。広い正しい心は毒舌や先入見や一時の感情を超絶する。つつましやかにしてしかも力強く、あたたかにしてしかも権威ある批判は、魂と魂、真実と真実とが接触するところから生まれる。私は人間本来の声――その声に根ざした俳論を熱求して居る。

 

 季題論が繰り返される毎に、私は一味の寂しさを感じないでは居られない。ただ季題という概念肯定のために――むしろ季題という言葉の存在のために、多くの論議が浪費されつつあるではないか。もしも季題というものが俳句の根本要素であるならば、季題研究は全然因襲的雰囲気から脱離して、更に更に根本的に取扱われなければならない。

 私は季題論を読むとき、季題という言葉よりも自然という言葉を使用する方がより多く妥当であり適切であると思う。

 

 俳句を止めるとか止めないとかいう人が時々ある。何という薄っぺらな心境であろう。止めようと思って止められるような俳句であるならば、止めまいと思うても止んでしまうような俳句であるならば、それはまことの詩ではない。止めるとか止めないとか、好きとか嫌いとかいうようなことを超越したところに、まことの詩としての俳句存在の理由がある。自我発現乃至価値創造の要求を離れて句作の意義はない。

 

 直接的表現を云々する態度は間接的態度である。現実味と真実味とを区分したり、人生味と自然味と優劣を争うたりする境地を脱していない。考うべき問題はもっと奥にある。

 第一義の問題をそのままにして置いて第二義第三義の問題に没頭するとき、俳壇は堕落するばかりである。

 

 一切の事象は内部化されなければならない。内部化されて初めて価値を持つ。

 生命ある作品とは必然性を有する作品である。必然性は人間性のどん底にある。

 詩人は自発的でなければならない。価値の創造者でなければならない。

 新らしい俳人はまず人間として苦しまなければならない。苦しみ、苦しみ、苦しみぬいた人間のみが詩人である。――(九、二六、夜)――

(「樹」大正五年十一月号)

歳々是好年

歳々是好年

 

宮本百合子

 

 

 

 

 新年というものについて抱く私たちの心持も、その年々によって様々ですし、一人のひとの生活の其々の時代によっても又おのずから、異った感想をもつものだということを、近頃感じて居ります。

 お正月という言葉で新年が考えられていた子供の時代からはなれて、二十歳前のころ、ほかの方たちはいかがでしたか、私にはお正月の形式的な挨拶だのしきたりだのが大変つまらないものに思われた時期がありました。お正月なんて、何がおめでたいんだろう。本当にこういう気持でぐるりを眺めました。

 それから数年の間、やはり正月は格別な感じをおこさせずに過ぎましたが、自分としての生活にいろいろの波瀾が生じて、来る一年はどんな内容をもって現れるのか予測もつかないようになってからは、却って新年を祝う気分になったのは面白いことだと思います。来る年を祝福して、よかれあしかれ是好年として積極的に迎える心持になりました。そういう意味から、新年を祝う複雑なしきたりだの、その盛大さというものを考えてみると、どうもこれは苦労人の考え出したものらしく思われますがいかがでしょう。例えば中国の習俗では正月を迎えることは年中行事中、最も賑やからしい様子ですが、それなら中国の村人、市民がこれまでの歴史のなかで常に安穏な月日を経て来ているかと云えば、事実は反対のものとして語られていると思います。日本の私たちは、あながちその習俗を形からとりいれたというばかりでない祖先たちの計り知られざる来る一年への祝福の感情を、どこやらにつたえられてもいるのではないでしょうか。そして、本年の正月などは、殊更その感が深いようです。

 今年はひろい規模で様々の祝典が催されたり、日本の歴史の上での記念すべき年として予定されているわけですが、日常生活が市民一般にあらわしている相貌に於ても、現実的にごく画期的なものをもっているのは興味ふかいところであると思います。私たち普通のくらしのなかにあるものは、珍しい種々の条件のなかで、お正月だけは火※[#「※」は「金へん+床」、読みは「とこ」、564-18]を二つにしましょうね。などというつつましきたのしみをもって、来る一年を迎えようとしているわけです。

 来年はどんな年でしょう。みんなの心にこの声があるだろうと思われます。そして、誰しも先ず体だけは丈夫にしておかなければ、と思うことも同じだろうと思います。文明のごく低かった社会でも、体がもとの暮しが営まれたわけだが、社会の文明の複雑さが或る点に達すると又その体がたよりという事情が全くちがった環境のなかに甦って来ることも、考えさせる点です。

 生きているということが人間にとっては只棲息しているという意味ではなく、歴史を自覚して生活してゆくということであってみれば、私たちが体だけは丈夫にと思う心の中に自然、精神も丈夫に、という思いもこもっている次第でしょう。

 日本が世界歴史のこの多岐な頁をしのいでゆく永年に亙っての実力のために、日本人はこれまでの誇りとして自認している勇気を更に多様な沈着な粘りつよく周密なものとしての面に発揮してゆかなければならないでしょうし、社会事情の複雑さについて却って、その囲いのなかで一般の精神が鋭意を喪い、単純化されてゆく方向におかれるなどということは、常識からも拒けられていることでしょう。

 ほんとうに、この一年はどんな年でしょう。時局は人間成長の枠であるということも沁々思われます。歳々を是好年に充実してゆこうとする人間らしい意欲についても、新しい挨拶をおくりたい心持です。

〔一九四〇年一月〕